プロフィール

Yuki Tsubomatsu(1-on-1キャリアコーチ)

  • 私は自分の好きなことや得意なことを人生の主軸に置く重要性をアメリカ留学時代に学び、それをベースとしたキャリアを積んできました。
  • 私は様々な実績を残して来ましたが、その前に数えきれないくらい多くの挫折を味わいました。
  • 私はニート、アルバイト、社員、管理職、取締役、役員、社長、起業家という様々な立場を経験し、広告・マーケティング業界、ウェルネス業界、ホスピタリティ業界、不動産業界と、経験業種も多岐に渡っています。
  • 私は現在、現役の経営者として海外にてキャリアを構築し続けています。

Yuki
一般的に単一又は類似した業界で2-3社の転職経験、というケースが多く、キャリアコンサルタントやキャリアカウンセラーもその例外に漏れません。本来、キャリア相談は多種多様な経験を歩んだ者(できれば経営やマネジメント経験がある者)がやるべきである、と考えております。

目次

経歴まとめ

  • アメリカの高校と大学に留学&卒業
  • 新卒で博報堂に入社。営業として大手自動車会社などを担当。
  • 外資系広告会社に転職し、主にプロジェクト管理のスキルを磨く。広告業界で合計5年弱のキャリア。
  • 社会人6年目で独立し、渋谷でフィットネスジムを経営。精神疾患を発症し仕事の継続が難しくなったため、起業して3年半でリタイア
  • 外資系企業に再就職するも全く活躍できずクビになり、ニートになる。
  • 宿泊事業を行うベンチャー企業で再就職。新規事業の立ち上げや既存事業の拡大に貢献し、1年後に社長に就任年商1億7000万円+利益率20%を達成し、その後も安定した経営を実現。
  • 2018年秋にフィリピンへ移住首都マニラにある現地不動産企業の社長兼COOに就任就任1年目で2000万円以上の赤字削減に成功し、現在は黒字化に向けて日々邁進中。
  • 多種多様な経験を活かし、「後悔のない人生を生きて欲しい」という思いから、「自分らしく生きるための」キャリアを提案するキャリアコーチングサービスを提供

経歴

横浜育ち、アメリカ留学、フィリピン在住、趣味多め

  • 生まれ:石川県七尾市(生まれただけ)
  • 育ち:神奈川県横浜市(〜中学時代)、アメリカ・マサチューセッツ州(高校時代)、アメリカ・ルイジアナ州(大学時代)
  • 現住所:フィリピン・マニラ
  • 趣味:ギター演奏、音楽鑑賞、サッカー、フットサル、野球、バスケ、テニス、ジョギング、水泳、スポーツ観戦、料理、映画鑑賞、読書、旅行、インターネット。
  • 好きな言葉:百聞は一見にしかず
  • モットー:人事を尽くして天命を待つ

いじめなど辛い経験をしていた小学生時代

幼少期から特異な経験を数多くしたことが、後の人生に大きく生きることになる。

横浜市にある公立の小学校に通っていたが、元々内気で運動音痴だった上、特異な言動や行動が多かったこともあり、理不尽ないじめにあうことが多かった

また、小学校の時に母親が離婚・再婚し、途中で姓が変わった。当時は離婚も再婚も珍しく、自分はいじめの標的として格好の存在だった。登校拒否や学校から逃げ出すこともあり、学校の成績も中の下。楽しい思い出はほぼ無かったが、唯一「音楽」が得意分野だった。親が音楽家で3歳の頃からエレクトーンを学んだこともあり、その後も着実に音楽のスキルを磨いていた。

人生を変えるキッカケになった、中学時代のアメリカでのサマースクール

「特徴的な性格を生かしたい」

そう考えた親の勧めで、中学二年生の夏休みを使ってアメリカのサマースクールに1ヶ月通うことになった。オレゴン州の大自然に囲まれた寮制の私立学校で、授業はもちろん全て英語。ディベートが中心で、生徒同士が「自分が大統領なら国をこう動かす」「自分が会社の社長ならビジネスをこう広げる」と自分の意見を戦わせていた。机に座り先生のレクチャーを聞いているだけの授業が当たり前だった自分にとって、衝撃的だった。

放課後には広大な森林に囲まれながらサッカー、野球、ランニングなどのスポーツで体や精神を鍛え、夜は宿題と向き合った後に友達と交友。ここでは普通に「将来の夢は何?」「君はどうなりたいの?」と今まで聞かれたことのないような質問を何度もされた。たった1ヶ月だったが、個性が尊重されるアメリカの教育に魅了された

帰国後、テストで高得点を取ったにも関わらず、「質問や意見が多く授業の妨げになった」という不可解な理由で評価を落とされた。それでもめげずに意見を言うようにしたが、先生からは敬遠され続け、やがてクラスメイトからも「調子に乗るな」と言われる始末

「このままだと自分が潰される・・・」という危機感を覚えた自分は、高校生からのアメリカへの留学を決断した。

留学決断後は、孤独との戦いだった。周りが皆高校受験を控える中、自分は留学へ向けての準備を進めていったが、「お前には無理だ」「高校受験が怖いから逃げるんだろ」と理不尽な口撃を食らっていた

しかし「周りが何を言おうと、人と違う道を選んだのだから、それを貫くしかない」と前を向いた。

そして、15歳の夏。単身でアメリカへ出発した。

厳しい環境の中で「自分らしさ」を見出せた高校留学

入学したのは、アメリカ・マサチューセッツ州にある全米最古の私立高校で、毎年アイビーリーグに数十名を送り込むような学校だった。全世界から最高の教育を受けてきた秀才が集まっており、つい数ヶ月前までただの公立学校の中学生で英語がほとんど話せなかった自分が行くには、あまりに厳しい環境だった。


アイビーリーグとは?
ハーバード大学、イェール大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、コロンビア大学、ブラウン大学、ダートマス大学、コーネル大学の8校で、アメリカ北東部に位置する、世界的な名門私立大学の総称。

キャンパスはマサチューセッツ州とニューハンプシャー州の州境近辺にあり、大自然に囲まれた田舎にあった。2.4平方キロメートルという広大な敷地が特徴的。札幌と同じ緯度ということもあり、秋や冬が早く訪れ、12月〜3月は大雪になることが何度もあった。

言い換えれば、「勉強や課外活動以外は基本的に何もすることがない」という環境だった。州都ボストンに行くにもバスで片道2時間弱かかるため、遊びに行くハードルがとても高い。刺激が必要な人にとっては、極めて過酷な環境だ。

しかし、幸い自分は元々内向的な性格だったこともあり、こういった「つまらない」環境はむしろ得意。まさに「自分がやるべきことに集中できる環境」で、自分がこの学校を選んだ理由でもある。今思えば、こういったシンプルな環境を選んで結果的に正解だったと思う。

最終的に、この学校を卒業できたことは、人生で最も重要な出来事の一つになった理由は「自分らしく生きるための土台を築けたこと」だ。その土台を築くための要素は3つあった。

高校のキャンパス

自分らしさの土台になった要素①:強烈な勉強量=自分の考えや意見を磨くネタ

毎日の宿題量はアメリカ人でも音を上げるほどだった。今まで日本語でもあまり本を読んだことがないのに「シェイクスピアの本を今月中に三冊読め」「2日後までに教科書数百ページ読んで論文を2本書け」など、英語が話せない自分には「到底無理」と感じさせられるレベルだった。心の準備はしてきたつもりだったが、何度も心が折れかけた。

しかし、この強烈な勉強量こそが、「自分らしさ」の土台を築くことになる

スポーツで言えば、宿題は「練習」で、授業は「試合」

授業(=試合)は先述の通りディベート形式で進むため、自分の考えや意見を戦わせることになる。その為に綿密かつ膨大な準備(=練習)が必要で、その準備を行うためのネタが宿題、ということになる。

自分の考えや意見を戦わせる場があることで、沢山の学びがある。「自分はこう思っているけど、こんな意見もあるんだ」という気づきが多かった。そこで自分の意見が育ち、自分らしさとは何か、を見出していくきっかけになった

自分らしさの土台になった要素②:好きなことを推奨し長所を伸ばしてくれた音楽の先生の存在

言葉が通じないハンデの中で、先生の存在が大きな支えになったこの学校の先生は、ほぼ全員が「人として心から尊敬できる存在」だった。何故なら、彼らは自分の考えを押し付けるようなことは決してしなかったからだ。むしろ生徒の意見を最大限に尊重し、例え失敗したとしても暖かい目で見守ってくれていたし、それが結果的に自立心を育ててくれた。

特に尊敬していたのは、音楽の先生だった。音楽は、言葉が通じない中で「共通の言語」にできる有難いツール。それを心底から理解してくれ、音楽以外の授業で上手くいかなかった時の話も積極的に聞いてくれた。彼も、きっと自分を一人前の人間にしたい、という思いでいっぱいだったと思う。

彼が言ってくれたことで印象に残っているのは、以下の通り。

先生
英語が話せないという弱点を、むしろ自分の強みにしなさい

先生
英語ができるまでの間、言葉を使わずにできる自分が得意なことを見つけ、それに没頭しなさい

先生
自分が心から好きだと思うことをやりなさい

彼は、決して「音楽をやりなさい」とは言わなかった。結果的に、自分が「得意なこと」や「心から好きなこと」は音楽だったので、それを自分で選んだ。英語を使わなくても良いし、きっとここにいる生徒の大半より音楽は得意なはず。他にも、スポーツは全般的に好きだったが、運動能力で(特に)アメリカ人たちに劣る。自分の勝負する場所は音楽だ!と決意した。

あとは、どの楽器で勝負するか。最初に選んだのは「ピアノ」だった。しかし、幼少期からやっていたエレクトーンは自分の選択ではなく「親の選択」だったこともあったせいか、心から楽しくやっていたことでは無かった

なかなかピアノが伸びない中、夏休みで日本に帰国した時にあるプロのギタリストと出会うことになる。彼が奏でるギターの音色に魅了され、「これだ!」と感じ、ギターを練習し始める

すると、ピアノをやっていた時よりも、明らかにテンションが上がる自分に気がついた。とにかく楽しかった。ギターなら、1日10時間以上やっていても飽きなかったし、むしろハマっていった。

「好きなことをやりなさい」と先生から言われていた自分は、ギターへの転向を決断した。先生はピアノが専門だったが、反対など一切せず「好きなことが見つかって良かったな!」と笑顔で受け入れてくれた

自分らしさの土台になった要素③:自己啓発本

心の支えになったのが、日本から持ってきた本の存在だった。苦難にぶつかった時は、特に自己啓発系の本にそれを乗り越えるヒントが書かれていることが多い。

当時読んだ本の中で特に印象に残っているのは、

  1. D. カーネギー著「道は開ける」
  2. D. カーネギー著「人を動かす」
  3. 石原 明 著「成功曲線」

上記①と②は世界的に著名な本なので割愛するとして、③の内容を紹介したい。

③の「成功曲線」は、夏休みに帰国した時に実際に著者の講演を聞いたことをきっかけに本を購入したが、この本を読んで「うまくいかなくて当然だったんだ」と思わされた。

そもそも「成功曲線」とは何だろうか?


成功曲線とは?
成功曲線とは、あることを始めたときに、ある程度の結果が出るまでの時間と努力(勉強や練習等)を表にしたもの。

まずは下記表を見てほしい。

著者によると、多くの人はこの表のように努力と時間に比例して結果は表れてくるものと思っている。

しかし、実際は違う。下記表を見て欲しい。

この表のように、努力の結果が表れてくるまでにはそれなりの時間を要することと、しばらくの間は結果はほとんど出ることなく、ある程度時間が経過してから急に伸びてくる。つまり、結果は遅れて出てくる、ということだ。

多くの人は、上記表のようにイメージと現実のギャップに苦しみ、それに耐えられなくなり殆どの人が道半ばで挫折してしまう。

これを知ってからは、「そうか、全く英語が話せない自分にとって、いきなり全てがうまくいくわけがないよな」と思えるようになった。「諦めさえしなければ、結果はそのうちついてくる」と楽観的になれた。また、結果が出てくるようになるまでの期間こそ、「自分が好きなこと、得意なことをやり続ける」ことが重要だと考えるようになった。

そうこうしているうちに2年が経過。すると、高校3年生になった辺りから、本当にビックリするくらい全てのことがうまくいくようになった。英語はもちろんのこと、勉強やスポーツの成績も一気に改善。音楽でも自分と仲間でスタートしたロックバンドが州内のコンサートで第1位を取るなど、目に見える結果がどんどんついてきた。

「自分らしく生きる」こととは、「好きなこと、得意なことを磨き上げること」。

「アメリカの学校は入学が比較的容易だが卒業が難しい」と常々聞かされていたが、まさにその通りだった。一定の成績が保たれていなければ、日本よりもシビアな基準で退学処分となる。残念ながら日本から来た留学仲間で途中で帰国してしまった知り合いも何人かいた。しかし、困難を一つ一つクリアしていったことで徐々に学業成績も向上し、学内優等生名簿に数回記載され、無事3年で卒業できた。卒業式では音楽部門で最優秀賞の表彰を受けた。

また、元々内向的で友達ができにくい性格だったが、何人もの親友に恵まれた。今でも彼らとは連絡を取り合い、世界のどこかで会うようにしている。

「困難の乗り越え方」を高校生の時に習得できたのは大きかった。しかし、それ以上に大きかったのは、以下のことだった。

Yuki
「自分らしく生きる」こととは、「好きなこと、得意なことを磨き上げること」。これを高校生の時に体験できたことが、高校留学で得た最も重要な価値です。

高校留学の体験談がWeb上で掲載されているので、そちらに留学生活の詳細が書いてあります(高校卒業時に書いたものなので、非常に拙い文章ですが・・・)。

卒業式にて同級生たちと(一番右)

卒業式にて同級生たちと(一番左)

「選択」の大切さを教えられた大学留学

卒業後、米国・ルイジアナ州ニューオーリンズの私立大学Tulane Universityに入学した。他の大学にも合格していたが、将来を考えた時に①音楽を続けやすい環境②経済や経営に関する学びができる環境、というのを条件にし、その結果この大学が第1候補となった。何よりもニューオーリンズという街に自分は魅了された。


ニューオーリンズとは?
アメリカ合衆国・ルイジアナ州の都市。ミシシッピ川の河口から約 180km上流の北岸に位置する。気候は温暖だが、地面が川の高水位より低く洪水やハリケーンの被害をしばしば受ける。クレオル (混血フランス人) 文化の中心であり、ブルースやジャズなどの音楽の発生地でもある。市内住民の50%は黒人が占め、南部の諸都市に比べ黒人の地位が高い。マルディ・グラ,ジャズフェスティバルなどは有名。美術館、ディキシーランドホール、コンベンションセンター、メルセデスベンツ・スーパードーム、ルイ・アームストロング国際空港などがあり,多くの石油会社本社が立地する。人口 34万人(2010年)。

「南部のハーバード」と言われるほどの名門校で、全米&世界中から秀才が集まっていた。同時に「全米一のパーティースクール」に何度もランクインし、ほとんどの生徒が「Work hard, play hard(よく学び、よく遊べ)」をモットーにしており、授業の無い日は(ある日も)ニューオーリンズの街に繰り出したり、キャンパスの至る所でパーティーが繰り広げられていた。

大学生活は、高校生活とは違いがいくつもあった。

高校生活との違い

  • 気候:温暖で、真冬でも最高気温が20度台。
  • 立地:キャンパスはニューオーリンズ市内にあり、ストリートカーを使えばダウンタウンにすぐに行けるような便利な環境だった。
  • 生徒数:高校時代は360名だったのに対し、大学は院生を合わせると12,000名以上。授業も高校時代はクラスルームに10-20名だったのに対し、大学時代は最初の2年は数百名規模。高校時代は先生の面倒見が良かったのに対し、大学時代は教授と生徒との距離感が大きく、より自己管理が求められた。

つまり、大学生活は「自己管理」「自立」がより求められる環境だった。この環境で、主に3つの大きな選択を迫られることになる。

大学時代に行った主な選択

  1. 今の大学に残るか、転校するか
  2. 音楽の道に進むか、ビジネスの道に進むか
  3. 卒業後、日本に変えるか、アメリカに残るか

選択①:今の大学に残るか、転校するか

成績が悪ければ高校以上にシビアな基準で退学処分となる。

「全米一のパーティースクール」だけあって、数多くの誘惑が存在した。「宿題があるから」と断っても、半ば強制的にパーティーに連れていかれたこともあった。真面目でストイックな高校生活の反動からか、その誘惑を断てずにパーティーを優先して学業を怠ってしまい、1年生の時の成績は非常に悪かった。高校時代と違い、英語がかなりできるようになっていたこと、パーティースクールということでノリの良い学生が集まっていたこと、そしてサッカー部に所属していたことから、入学後すぐに多くの友達を作ることはできたが・・・

自分はこの学校に奨学金(日本と違って返済の必要無し、事実上の学費ディスカウント)をもらって入学したが、大学から「このままの成績があと2学期続くと奨学金は取り消し」という警告レターが発行されてしまった。

うまくいかないことがあると、環境や他人のせいにしたくなるのが人間心理。「大学と自分の相性が良くない」という身勝手で根拠のないことを言い出し、転校を考えるようになった。

2年生が始まったと同時に、転校先候補のアメリカ・ワシントン州シアトルにある大学を訪れた。在籍していた大学よりも更に広大な敷地にあり、キャンパス内には最先端の技術をつかったクラスルームや図書館、巨大なフットボールスタジアム、ジム、バスケットボールコートなどが存在し、環境は圧倒的にこちらの大学のほうが良かった。

2年次の転校は高校の成績が優先されるため、条件付きだがこの大学への転校は十分に可能だった。

今の大学に残るか、環境を変えるか。悩ましい選択だった。

ニューオーリンズへの帰りの飛行機の中で出した答えは、「今の大学に残ること」だった。理由は、「今の大学で自分の強みや力を出し切っていないのに転校してしまうと、後できっと後悔する」「まだやれることはあるし、それをやり切ってダメだったら転校しよう」と考えたからだ。

キャンパスに戻って来てからは、どうやったら自分のやるべきことに集中できるかを考えた。そこで出た答えは、「高校時代のようにストイックな環境を自分で作る」ようにした。住む寮を静かな場所に変え、毎日の勉強時間と場所を決め、その間は電話にも出ないようにしてパーティーの誘いもほとんど断っていた。

その結果、成績は向上し、奨学金キープのノルマをクリアし、後に奨学金が増額されることとなった。あのまま周りに流されてパーティーに行っていたら、それはそれでまた違う道があったかもしれないが、「目標を達成するための環境を作り出す」ことの重要さをこの経験から得られたのは大きい。

選択②:音楽の道に進むか、ビジネスの道に進むか

学業が上向いてきた時に、もう一つの選択が迫っていた。それは「音楽とビジネスのどちらの道に進むか」である。日本で言うところの「一般教養」が終わる2年次終了前に、Business School(経営学部)に進むか否かを決めなくてはならない。

音楽は大好きだし、ワクワクする。ライブハウスでギターを披露すれば多くの拍手をもらえるし、そこで出会う人との交流も楽しかった。

しかし、自分の中で漠然と「ビジネスで成功したい」という思いもあった。当時はよく経営者が書いた本を読んでいたが、そういった本に刺激を受け、いつしか「将来は経営者として自分でビジネスをやってみたい」と思うようになった。

迷ったあげく、Business Schoolに進むことにし、マーケティングとITを専攻した。どちらを選択してもそこまで後悔はしないと思っていたが、どうやって会社の経営が成り立っているのか、何故うまくいく経営とそうでない経営があるのか、などへの興味関心が高く、Business Schoolでの授業はワクワクの連続だった。

選択③:卒業後、日本に変えるか、アメリカに残るか

4年生になると、いよいよ就職活動が始まる。日本に帰るか、アメリカに残るか。4年生になったばかりの自分は決めきれずにいたが、マーケティングや広告などの業種に絞り各企業の面接を受け始めていた。

そんな中、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生し、ニューヨークのワールド・トレード・センター、ワシントンDCのペンタゴン(アメリカ国防総省)などの主要機関が攻撃された。その2日後に丁度ニューヨークで会社訪問などの予定が入っていたが、勿論キャンセル。テレビ画面に釘付けになってその動向を確認していた。

翌月、北米の日本人留学生を対象とした就活イベント「ボストン・キャリア・フォーラム」に参加。テロの影響で参加社数が大幅減となったが、それでも最終的に博報堂をはじめ複数企業から内定をもらうことになる(なぜ内定をもらうことができたのか、後日「キャリアコラム」で詳しく解説します)。

アメリカの会社からマーケティング職の内定をもらっていたが、テロの影響もあったのか、外国人扱いで不利な雇用条件を提示されていた。また、クリエイティブな仕事に携われる広告系の仕事の方がワクワクした。

これにより、最終的に日本に帰ることを決断した。また、当時面接で「今後海外ビジネスを積極的に行っていく」というビジョンを熱く語ってくれた博報堂に就職することとなった。


多くの重要な選択を迫られた大学生活だったが、選択の基準は主に以下の2点だった。

選択の基準

  1. 「どの選択がワクワクし、自分らしくいられるか」
  2. 「どちらを選べば後で後悔しないか」

この基準は今のキャリアでも重要視している。大学生活で学んだことは数多くあるが、人生において何度も迫られるであろう選択の基準を得られたことは非常に良かった。

卒業式は72,000人収容のメルセデスベンツ・スーパードームで盛大に行われた。しかし、卒業式前後は毎日のようにパーティーが続き、実はあまり記憶にない・・・笑

自分の強みを活かし切れなかった博報堂での日々

博報堂に入社する前に、「実績をしっかり積んで、5年以内に独立して起業する」という自分との約束を紙に書いて、机に閉まっていた。それだけに「誰よりも努力して早く成長したい」と高いモチベーションで取り組んでいた。

博報堂での配属先は大手自動車メーカーの担当部署で、アカウントエグゼクティブ(営業)という役職のもと、主に以下の業務を担った。

博報堂での主な仕事

  • 広告制作の企画〜提案〜制作〜ローンチ〜検証・調査などの進行管理
  • 社内外のプロジェクトチームを統括
  • 対クライアントの窓口となり、クライアントが抱える課題を掘り出しや関係構築
  • イベント企画〜提案〜準備〜実施〜検証の進行管理(中国やカナダのモーターショーイベントなど)
  • 新規事業開拓プロジェクト企画の立案・提案

ビジネスにおいて肝となるスケジュール管理や段取り、クライアントへの営業など、社会人としての基本を叩き込まれた。新卒入社として最初はつまずきながらも、先輩が支えてくれ徐々に仕事を覚えていった。また、部署内でダントツの英語力を持っていた自分は少しずつ海外案件をやらせてもらうようになり、毎日深夜残業が続いたがやりがいも感じ始め、やる気に満ちていた。

ところが、社内事情により2年目で部署異動となってしまう。異動先は当時社内で活かせる唯一の強みであったはずの「英語力」が全く活かせない環境だった。また、自分は前部署で業務効率化に取り組み一定の結果を出せていたが、新部署では「効率化よりも、対クライアントの仕事を優先しろ」と受け入れられなかった。

実は、異動前にこうなるのでは、と心配したが、まずはトライしてみてから、と思い最初の数ヶ月は踏ん張った。しかし自分の不安は的中し、会社に再度の異動を打診するが、「異動したてなので、難しい」と叶わなかった。

このまま数年間自分の強みが生かせない環境にいるのは人生の時間がもったいない、と判断し、2年で外資系広告会社への転職を決意した。

今でこそ早期転職はよくある話だが当時はとても珍しく、しかも博報堂のような人気大手企業からの早期退職は極めて異例だった。

結果的に正解だった外資系企業への転職

転職先は、外資系の広告会社だった。WPPという世界第1位の広告代理店グループに属し、外資系の大手企業多数がクライアントだった。自分は外資系大手IT企業を担当する部署に配属され、博報堂時代と同様アカウントエグゼクティブとして主に以下の業務を担当した。

外資系広告会社での主な仕事

  • グローバル広告のローカライズ版制作の企画〜提案〜制作〜ローンチ〜検証・調査などの進行管理
  • デジタル広告のメディアプランニング
  • 国内イベントの企画〜提案〜準備〜実施〜検証の進行管理(東京・大阪・名古屋でのエンジニア向けイベント)
  • 社内資料の翻訳、社内ミーティングの通訳など
  • 新規事業開拓プロジェクト企画の立案・提案

同じ業界、同じ業種だったが、博報堂での仕事と大きく違い、まるで別の業界にいるような感覚があった。主な違いは、

博報堂での仕事との違い

  • 自分の得意分野である英語力をフルに活かせる(逆に英語力が無いとしんどい)
  • クライアントとの打ち合わせで毎回方向性を明確に固め「変更無し」の確約書ももらうため、業務が非常に効率的に進行する
  • ミーティングの数が少ない
  • 残業時間も少ない

博報堂時代に感じていた「自分の強みを活かせる環境であれば、力は出せるはず」という予感はズバリ当たった。英語力という武器を主軸に様々なプロジェクトに取り組み、同時に効率的な業務進行が推奨される環境だったため、力を出しやすかった。

結果的に、当時会社の稼ぎ頭だった部署の主軸メンバーの一人に成長することができ、昇進・昇給も経験した。博報堂時代の上司から言われていた「外資系企業は実力主義、結果が全て」というのは本当だった。

博報堂時代にほぼ結果を出せなかった自分が、環境を変えることで結果を出すことができ、大きな自信になった。

ある程度の経験と実績を積んだ自分は、元々の目標でもあった起業を目指す決心をした。ただ「何で起業するか」は特に考えていなかった。

渋谷でフィットネスジムを開業、順調なスタートを切る

ある日、運動不足を解消するためにジムに通うようになるが、その時に出会った3次元振動マシン「パワープレート」との出会いに衝撃を受けた。これまで1時間ほどかけてやっていたプログラムが、このパワープレートでトレーニングすることで15-30分という短時間に収まる。

また、当時パワープレートは日本に来て間もなかったこと、「加圧トレーニング」などの時短トレーニングが流行り始めていたことから、「これは流行るかもしれない」と事業としてのポテンシャルを大きく感じた。また、スポーツやフィットネスという自分の好きな分野に関われることでワクワク感が大きかった。

もし始めるなら、早めにスタートしたい。日に日にその気持ちが大きくなり、「やるなら中途半端でなく、本気で取り組もう」と決意し、3日後に会社に辞表を提出した。

初めての起業ということで右も左もわからない状態だったが、開業手続きを一つずつこなしていった。集客やマーケティングに関わる作業は、広告代理店時代に学んだことが活きた。ターゲット像を特定し、そのターゲット像からどうやってインサイトを引き出すか。自分が特定したターゲット像は以下の通り。

開業前に自分が描いたフィットネスジムのターゲット像

  • 年代:30代-40代女性
  • 職業:会社員、自営業、ビジネスオーナー
  • 主なニーズ:美肌を手に入れたい、代謝を上げたい、いつまでも健康体でいたい、海やプールに行って堂々と水着姿を披露したい
  • 主なマインドセット:運動は面倒、運動する時間が取れない、ジムは月会費だけ払って結局行かなくなる 

上記の中で、特に自営業やビジネスオーナーがメインターゲットとなった。女性の自営業者は、特に美容系・ウェルネス系に関して自分がやってみて本当に良いと思ったものは、男性よりも「クチコミ」をしてくれやすい、というリサーチ結果が存在した。自己資金と少しの借入金のみで起業した自分にとって、忙しいライフスタイルを送る女性のために好立地で開業する代わりに、広告費を最小限に抑えることは必須事項だった。

そして、社会人6年目に突入したタイミングで、渋谷に都内初のパワープレート専門ジムをオープンさせた。

オープンして間もなく、鹿島アントラーズやサッカー日本代表などがパワープレートを利用し始め、テレビや雑誌などでも取り上げられた。また、開業前に描いたターゲット像は見事にハマり、「すぐに効果が実感できる」とクチコミによる集客に成功したことから、開業直後から順調に売上が上がっていった。そのうちプロアスリートや芸能人の方もクライアントとして来てくれるようになり、彼らもクチコミをしてくれるようになった。

突然発症してしまったメンタル疾患

ところが、開業1年を過ぎた頃から、急に激しい動悸を感じ、息切れするなど、体調が思わしくない時期が続いた。「何か大きな病気なのでは?」と不安を覚えながらも「ここで止まっていられない・・・」と多忙でごまかす日々が続いた。

しかし、ある日突然心臓が止まるような感覚を覚え、呼吸困難になり、ついに意識を失い救急車で運ばれてしまう。病院に運ばれてから少しずつ意識を取り戻したが「このまま死ぬのか・・・」と考えていた。しかし、病院に運ばれてからの検査結果は「特に異常が見当たらず」で、翌日追加検査を受けるも「異常なし」。

その後も動悸が止まらない状態が続いていた中、「心療内科に行って来たら?」と知人に勧められ、診察を受けた結果「パニック障害」と診断された。

自分がまさかメンタル系の病にかかるなんて・・・アメリカに住んでいた頃、メンタル疾患で症状が重く寝たきりだった人を見ていただけに、その人たちと同じ病気にかかってしまったのか・・・とショックは大きかった。

それでも、「すぐに克服してみせる」と意気込んだが、ここからが困難の始まりだった。

体調が悪化し、事業継続を断念

投薬治療などをしながら必死に事業を続けていたが、「頑張ろう」と思えば思うほど、体がついてこない。

お客様対応は辛うじてできたものの、それ以外の仕事をしようとすると呼吸がしづらくなったり、めまいや動悸が激しくなったりした。

そして体調を何度も崩していよいよ全ての仕事が手に付かない状態となり、最終的に事業継続を断念することになった。

後で聞いた話だが、この頃の自分は常に「頑張ります」というのが口癖だったらしい。実際に睡眠時間を削って仕事ばかりしており、当時の合言葉は「努力・気合い・根性」。明らかに頑張りすぎていた。自分に対して過大なストレスをかけてしまい、それがパニック障害の引き金となった可能性が高い。

お客様にも、スタッフにも、只々申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

食い扶持を失い再就職するも、クビに

病気が完全に克服できていなかったが、貯金が尽き借金が残った自分には、前に進んでいくしか選択肢が無かった。当時は自己分析をきちんとやる余裕もなく、まずは一刻も早く仕事を見つけなければならない状況だった。

今思うと、当時他の人になかなかない自分の強みは「高い英語力」x「営業経験」x「起業経験」の掛け合わせだった

にも関わらず、スマホアプリを開発し運営するベンチャー企業に就職し、「カスタマーサポート」の管理業務を任されが、自分の強みを活かす場がなく病気が悪化し、1年で退職

その後外資系企業に就職して翻訳スタッフになったが、語学力を活かせたものの他に自分より語学力を持ったスタッフがいたり、それ以外の強みを全く活かせず、3ヶ月で解雇

30代半ばにしてニートとなってしまった。

学生時代に思い描いていた「経営者として成功したい」という思いとは裏腹に、自分の人生が転落してしまったような気がした。

病気になったこともそうだが、何よりも「自分が望んだ人生」を生きていないことが情けなかった。

しかし、このままでは終わりたくない。家庭を持ったこともあり、前に進むしかなかった

ただ、もしかしたら神様が「少し休んでこれからの自分の道を考えなさい」と言ってるのかもしれない。解雇されたのは、きっとそんな意味があるに違いない、とも感じていた。

ベンチャー企業に再就職し、1年後に社長就任

約半年後、宿泊事業を行うベンチャー企業に再就職。日本への観光客人数が増加し始めた時期ということもあり、参画するタイミングとしては抜群だった。

宿泊事業は、これまで自分が培ってきた経営経験、語学力、マーケティングの知識やスキル、分析能力などのスキルをフル活用できる仕事で、まさに「自分らしくいられる」場所だった。

また、社長のF氏が非常に優秀でかつ人望が厚い方だったことや、観光業界の急拡大も後押しし、事業は急速に成長していった。自分も事業成長の中核を任されるようになり、好結果に繋がっていた。

そして、分社化に伴い、なんと新会社の社長に任命され、そのまま事業を引き継いだ。1年半前はクビになった自分が、まさかの社長就任である。

人生、何があるか分からない諦めずに前に進んでいれば、こういうこともあるんだ、と感じた。

社長になってからは勿論大変なことも多かった。外国人を含む従業員12名を率いるのは容易な仕事ではない。しかし、自分らしさを存分に活かせる環境だったこと、F氏から様々なノウハウを学ばせてもらえたこと、スタッフが優秀だったことが大きく、毎日が非常に充実していた。

そして、いつの間にかパニック障害の症状も薄れ、着々と成果を上げることができ、年商1億7000万円、利益率20%まで到達。事業は競争が激化する中でも成長を続けることができた。

メンタル疾患で仕事ができなかった自分が、なぜこれだけ急に実績を挙げられるようになったのかは、「キャリアコラム」にて詳しく解説する。

人生の方向性を考えさせられた言葉に出会い、海外移住を決意

事業をさらに成長させようと思う中で、様々な学びがあった。この時、自分は読書やYouTubeで学んだり情報収集するのが日課になっていたが、その中で特に印象的だったのが、アップルの創業者、スティーブ・ジョブスの言葉だった

スティーブ・ジョブス
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today? ‘ And whenever the answer has been ‘No’ for too many days in a row, I know I need to change something.(もし今日が人生最後の日だったら、私は今日やることをやりたいだろうか?」そして、答えが「いいえ」という日が何日も続くようであれば、何かを変える必要がある)

この言葉が、いつまでも頭から離れなかった。

今日これから自分がやろうとしていることは、本当に心からやりたいことだろうか?

自分が心の底からやりたいことは、何だろうか。

実は、病気や挫折を経験する中で、ずっと心に閉まっていた思いがあった。

それは、「いつかは海外に戻りたい、海外で活躍したい」ということだった。

自分の気持ちに嘘はつきたくない。もっと自分らしくいられる環境を目指したい。

年を重ねると、どんどん考え方が保守的になる。これからの人生、今が一番若い。チャレンジするなら、今じゃないのか?

後悔はしたくない。病状も落ち着いてきて、行動を起こすなら今しかない!

そう思い、海外移住を決意した。

移住先は、フィリピンの首都マニラ

久々の海外移住となるが、選んだ場所となったのは、フィリピン共和国の首都マニラだった。

自分がフィリピンを選んだ9つの理由

  1. 英語が公用語である(自分の強みは英語力であり、英語が使える環境であることは必須)
  2. 経済成長が著しい(2019年までの11年間で毎年GDPが最低6.0%以上成長。市場の成長の波に乗ることが、自分の市場価値を上げるために最も効率的)
  3. 日本では国内では「上には上がいる」が、まだまだ発展途上のフィリピンでは自分が持つスキルが市場でトップクラスになり得る
  4. 一年中気候が温暖である(寒い気候では自分のパフォーマンスや生産性が落ちる傾向があったため)
  5. 物価が安いこと(都内で生活していた時の半分強なので、生活コストが抑えられ生涯資産を増やせる)
  6. 国の人柄が比較的明るく穏やかであること(自分はアメリカで育ったこともあり、「ノリの良い」国民性との相性が良い)
  7. ワークライフバランスが取りやすい環境であること(人生において「時間」は最も価値のある存在であり、フィリピンは家族を大切にする国民性から、長時間残業をさせるのはタブーとされている)
  8. 今後多くの企業や個人の進出が見込まれる国だが、まだその進出は限定的であり、今のうちにフィリピンに来ておくことでパイオニア的な希少価値の高い存在になれると考えたこと
  9. 花粉が無いこと

フィリピンというと「危ない」「貧困」というネガティヴなイメージがあるが、とんでもない。今や近代化が急速に進んでおり、国のあちこちで大規模都市開発や交通インフラ整備などが行われており、明らかに日本では感じられない「勢い」や「エネルギー」を感じる。

確かに治安が悪い地域もあるが、現在住んでいる「Bonifacio Global City (BGC)」はその名の通り世界中から企業が集まるビジネス街であり、2000年代前半から大規模開発が始まった非常に新しい街である。治安も極めて良く、女性が夜中に一人で歩いても問題はない。外国籍の人も多く住む街で、一見欧米のビジネス街のように見える。

Bonifacio Global City(マニラ首都圏)

 

住まいはコンドミニアムで、基本的にフィリピンをはじめ東南アジアのコンドミニアムにはプールやジムなどの共用施設が充実していることが多い。今住んでいるコンドミニアムはプールだけでなくスパやバスケットボールコートなどもあり、見た目はまるでリゾートホテルのようだ。

現在住んでいるマンションの共用部(プール、スパ、その他)

マニラ現地のグローバル企業の代表に就任

移住するからには、当然仕事を探さなければならない。

海外の転職活動は初めてだったが、以下を絶対条件として設定し、一つでも外れるようであれば海外へ移住する意味は無い、と考えた。

有難いことにいくつかの企業から内定をいただいたが、以下すべての条件を満たす仕事はなかなか見つからない、数ヶ月、または1年以上かかるかもしれないことを覚悟していた。

しかし幸運なことに、その中で以下条件を全て満たした仕事に巡り合った。グローバル不動産ブランドを持つ現地不動産会社の代表(後に社長兼COO(最高執行責任者))だ。

海外移住の際に設定した、転職先の「絶対条件」

  1. 経営者としての経験を活かせること
    • 逆に言うと、経営者以外のポジションは自分をフルに活かしにくいと考えていた
  2. 成長している業界であること
    • 成長していない業界に属すると、自分の努力が報われないことが多く、成果が出せず市場価値を落とすと考えていた
  3. 現在の業界に近しい業界であること
    • 当時は宿泊業だったが、不動産オーナーに対して一般の賃貸より収益性が高いプランを提案していたことから、元々不動産業には興味があった
  4. 市場価値に基づいて自分が設定した最低ラインの年収が確保できること
    • 逆に言うと、このラインを上回る結果を出すことをコミットすることにもなる

現地の不動産事業は活況だが、同時に競争も非常に激しい。その中で、主に①チームの刷新、②経営状況の改善、③売上向上プロジェクト推進、④開発事業をはじめとする投資機会の発掘、⑤海外からの投資家・クライアント誘致、などの業務を任されている。業務開始時は問題やトラブルが山積みだったが、一つずつ課題を解決していき、1年目で年間2000万円以上の赤字削減に成功した。

中国の首都・北京でのイベント会場にてプレゼン

フィリピンの従業員たちと

メッセージ

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。最後に、もう少しだけお付き合いください。

多くの挫折や失敗から学んだこと

自分は多くの挫折や失敗を経験してきました。

それらの挫折や失敗の経験談は別途詳しく書こうと思いますが、今は「多くの失敗をして良かった」だと思っています。

むしろ、「もっともっと失敗して、ネタを沢山作りたい」と思っています。

失敗談は数え切れませんが、同時に学んだことも数え切れません。

その中で3つを選んで書いてみます。

始めるのに遅すぎることはない。

この言葉の通りです。

もう自分は○歳だから、○○をやるのは遅い

たまにこういうセリフを耳にします。

果たして、本当にそうでしょうか?

有名な話ですが、カーネル・サンダース氏は65歳でケンタッキーフライドチキンを創業しています。

ガソリンスタンドなど、数々の経営に挑戦しましたが、幾度となく挫折や失敗した後、ケンタッキーフライドチキンが大成功を遂げました。

また、物事の一流になるのに1万時間の法則というのがあり、1日3時間程度で10年。1日10時間だと3年でそこに到達します。

つまり、年齢は関係ありません。

自分が大好きなストーリーをご紹介します。

83歳のおばあさんが専門学校を受験すると言い出したところ、周りの人は反対したという。いわく、『いま83歳、卒業したら86歳。なんの意味があるのか』と。するとおばあさんはしばらく考えた後、にっこり笑った。『確かに卒業したら86歳だけど、何もしなくても3年後には86歳になってるわ。』

自分も、38歳で海外移住を決断して行動に移しました。一般的には、決して若いとは言えない年齢だと思います。

でも、今は行動に移して本当に良かったと思っています。そして、これからいくら年齢を重ねても、ためらいなく新たな挑戦をし続けたいと思います。

諦めなければ何かが起こる。何も起こらなければ、環境を変えることで何かが起こる。

悪い状況が続いても、諦めさえしなければ、大抵の場合、後に良いことは起こります。

ですが、残念ながら何も起きないこともあります

その場合は、環境を変えることで、何かが起こることがあります

自分は最初に入った会社で本当に苦労しました。

何度チャレンジしても、全くうまくいかないことばかりでした。

なので、環境を変えることを選択しました。

当時はまだ新卒から2年で転職すること自体大変珍しく、「逃げるのか」「石の上にも三年って言うじゃないか」など、罵声を浴び続けました。自分の悪口を言う2chのスレッドが立ち上がるなど、周囲からは全く受け入れられませんでした。

しかし、結果的にこの転職は上手くいきました

当時、自分が唯一誇れたスキルが「英語力」でした。日本人の英語力は世界的に見て低いと言われる中で、英語力だけは突出していました。

自分の唯一の強みを全く生かせない環境に居たこと自体が問題だったのです。

それを活かせる環境に移り、活かすことで組織やチームに貢献でき、自分にとっても充実感がある日々を送ることができる、まさに会社と自分の間でWin-winの関係を築くことができました。

逆に言うと、Win-winの関係でなければ意味がないとさえ思います。

努力を続けてもうまくいかない、今いる環境の質が悪い(上司からパワハラを受ける、結果を出しても給与に反映されない、など)など、今の環境を見つめ直す必要のある方は、環境を変えることも選択肢に入れてみてはいかがでしょうか。変えることで状況が好転する保証はないものの、可能性はあります。一方で、今のままでは状況が好転しにくい可能性が高いことは確かです。

チャンスは常に転がっている。逃すときもあるけど、逃したならまたつかみにいけばいい。

自分は小さい頃から「チャンスは一度逃したらなかなかやってこない。一度来たチャンスは死ぬ気で取りに行け」と教えました。

だから、病気になった時は本当に焦りました。自分が掲げた目標通りに起業してチャンスを得たのに、途中で断念せざるを得ない状況になった時は、絶望的な気持ちにさえなりました。

ところが、神様はチャンスを逃しても、また別のチャンスを与えてくれます。実際、僕は宿泊業の社長をやらせてもらう機会に巡り合いました。そして海外移住のチャンスも与えてくれました。

今は海外で大変有意義な時間を過ごさせてもらえているので、このチャンスを掴んで本当に良かったと思います。

では、なぜ自分のところにチャンスがやってきたのか?「運が良い」こともあると思いますが、「その運を引き寄せるべく、何があっても諦めず、毎日半歩でもいいから前に進んだこと」に尽きると思います。チャンスはそういう人にしかやってこない、ということも実体験から感じています。

チャンスは常に転がっています。それを逃したからといって、諦めては全ての可能性をシャットダウンしてしまいます。逃したら、またつかみにいけばいいだけの話です。

失敗や挫折を経験したからこそ、後悔のない選択肢へ導きます

数々の失敗や挫折を経験して遠回りを沢山してきたからこそ、「自分らしく生きたい人をサポートしたい」という思いでキャリアコーチを始めました。

グローバル化や少子高齢化、技術の進化などによって社会構造が変わる中、「働く」ことの定義にも大きな変化が起ころうとしています。

また、幸福度ランキングで先進国の中では低ランクに位置する日本において、「幸せとは何か」について議論されることも増えてきています。

これまで「キャリア」という言葉は「仕事」や「経歴」という意味合いが強かったですが、社会構造の変化によって、そこに「自分らしさ」という要素を入れるべきである、と考えます。

よりハッピーな環境は「自分らしさを存分に発揮できる環境」である、ということは多くの方々の、そして自分の経験においても実証済みです。

自分らしいキャリアを歩まないと、重大な問題を抱えることに

自分のことが分からない、つまりキャリアの軸が見つからず「自分らしいキャリア」を歩まないことで、重大な問題を抱えることになります。

重大な問題とは、「時間を無駄にすること」です。

これまでの経験から、私は時間を無駄にするということは、人生を無駄にすることだと思っています。何故なら、当たり前の話ですが、人生とは「生きている時間(特に元気に動けている期間)」のことを指すからです。

今後平均寿命が伸びていくと言われているとはいえ、人生はいつどこでどうなるか分かりません。本当に自分らしく充実した人生を送りたいのなら、「無駄にしていい時間」は1秒たりともあるべきでない、と考えています。

「自分らしいキャリアが何か」を定義できていない中で転職やキャリアチェンジを重ねると、同じような問題が降りかかります。

前述のとおり、病気になり体調が悪化したこともあって自身で立ち上げたフィットネスジムをクローズしたのですが、今思うとその時が「キャリアを軸を定める最高のタイミング」だったと思います。

にも関わらず、貯金が尽きて「まずは仕事を探さなければ」という目先の利益を優先し、キャリアの見直しをせずにすぐに再就職してしまいました。

年齢的にはもう30代半ばで、今思うと「キャリアの軸を見つけずに退職→再就職」というネガティブループにはまった時間は、とても勿体なかった、と考えています。

私は「始めるのに遅すぎることはない」という言葉が大好きで、心からそう信じています。

しかし、同時に「自分がしてしまった失敗は、他の人に味わって欲しくない」とも考えています。

満足のいくキャリアを歩めていない方のお悩みを解決したく、キャリアコーチングのサービスを立ち上げた次第です。

「本当の自分」に出会いましょう

「キャリア」とは、自分らしさのことを指します。

IxCareeR(イクスキャリア)という名前には、以下の意味を込めました。


  • I  = 「私」、つまり今これを読んでくださっている「あなた」
  • CareeR = 「キャリア」とは、「その人らしく生きる手段」

I x CareeR = あなたらしく生きる手段

つまり、「あなた」と「その人らしく生きる手段」を掛け合わせることにより、「あなた」にとって最高の人生を描く。そのお手伝いさせていただく最上級の1-on-1コーチングサービスを提供させていただきたい、という願いをこめました。

また、最後の「R」をあえて大文字にしたのは、「最終的にその人らしさを最大限にするお手伝いをさせていただきたい」という思いを表現したものです。

つまり、一人一人が自分らしい生き方を取り入れて、最高の人生を手にいれる。

自分は、以下の全ての立場を経験しました。

  • 大手企業、外資系企業、中小企業、ベンチャー企業
  • ニート、アルバイト、インターン、平社員、管理職、役員、取締役、社長
  • 副業

なので、就職、転職、副業、年収UPを中心に、コーチングを通じて「あなたらしい」生き方を見つけるお手伝いをさせていただけたらと思います。

その結果、皆さんが「本当の自分」に出会うことができたら、これ以上に嬉しいことはありません。